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Author:toro
細々と仕事をしながら生活をしている主婦です。母がガンに罹ってから6年。ターミナルの時期に突入したと思いきや、あっという間に逝ってしまいました。それでもちゃんと受け止めなくてはと覚書としてこれから書き残しておこうと思います。


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DATE: CATEGORY:緩和ケア
2月24日(日)21:00~NHKスペシャルでO先生を密着取材した番組が放映される。
『最期の願いをかなえたい~在宅でがんを看(み)取る~』
http://www.nhk.or.jp/special/onair/080224.html
こういうお医者さまもいるんだと、知ってもらえたらいいなあと思う。

母も最期はこの先生に診てもらえてよかった。

O先生に強力にお願いした私もえらいんだけどね(笑)←自画自賛。

この記事を読んでいる人は少ないだろうけれど、見ていただけたらと思います。

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DATE: CATEGORY:緩和ケア
また、覚書として記しておかなくてはと思ったこと。思い出したので……。

母がターミナルの時期に入ったならば、ホスピスに入れることも視野に入れていた。最終的には本人の希望が「自分でトイレにいけなくなったらホスピスに入りたい」ということだったので、そうしようと思っていたが、タイミング的にも最終段階まできていたので、それは叶わぬ夢で終わった。

なんたってホスピスそのものが少ないし、あったとしても病床数が限られている。それに、いまや入りたいという人が増えてきているので、待っている人もいっぱいいるのだ。要するに「緩和ケア」ということがすいぶんと浸透してきたということなんだろうけれど、QOLをしっかりと考える人も増えてきているんだろうと思う。

ともあれ「ホスピスを」と往診に来ていただいていたO先生には伝えていた。そしてホスピスへの入院が難しいとなったそのとき、O先生から「小規模多機能ホームというのがある」ということを聞かされた。
(参考サイト)http://www.shokibo-takino.com/
↑このサイトを見ると、地域のシェルター的役割を担っているのだという。

O先生がすすめたのは「ホスピスのような医療はできないけれど、家にいるような介護(看護)を受けられるから」という理由であるようだった。O先生はそのなかの一つのホームを紹介してくれたが、おそらく往診に行っているホームだったんだろう。たぶん、先生も仕事がしやすいホームだったんだと思う。

あとから、「あーなるほど」と思ったが、高齢になると医療か介護かという境界線で悩む部分が多くなってくる。介護サービスで可能なこと。医療でなくてはいけないこと。この棲み分けに微妙に重なる部分があるのだ。そこでどっちをとるか…ということになって来るんだと思う。

これからは、とくに高齢者は医療も在宅で受けなければならないことになってくる。介護と医療、受けようによっては上手な利用法があると思う。情報をたくさん得て、選択肢をたくさん持っていることが、今後の介護や医療に立ち向かう武器になるかな、と思った。

知っているもの勝ちかもしれないな。

おしまい。

もひとつ参考サイト
http://www.clc-japan.com/takurousyo_net/
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DATE: CATEGORY:緩和ケア
O先生から手紙が届いたことを前々回に書いた。

しかし、その返信ができずにいる。お礼の手紙をしたためなくてはと思うのだが、なかなか筆が進まない。というより、筆自体も持っていないけれど。

どのような手紙を書いていいのか分からないのだ。情けないったりゃありゃしない。

私の友人には、実は母の死を知らせていない。mixiでやりとりをしている友人にだけ伝えた。そのために、わざわざお香典を送ってもらったりもしてしまったのであるが。。。そういう友人には私から香典返しをした。お返しはいらないと言っていたのだが、何となく気が済まない私は自分の好きなお菓子をお返しした。

そんなわけでお菓子を贈るくらいはできるのであるが…。

O先生へ手紙のお返しができない。物であればすぐに送れるのに、言葉にすることができない。困った。

何故書けないのか考えているのだけれど、まだ消化し切れていないのかもしれないなと思う。

いま思っていることをそのまま言葉にすればいいのかもしれないのだが。

ぼちぼちと筆を持とうか……。


ぼんやりと考える。
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DATE: CATEGORY:緩和ケア
病気を治すための医療から、病気の苦しみを緩和するための医療に「いつ」移行したらいいのかということを、つらつらと考えてみた。

もちろん母の病気のこともあって、考えざるを得なかったということが本当のところではあるのだが。

とともに、考えざるを得ないことは「人の尊厳」ということである。ここで簡単にいってしまえば「尊厳死」のことなんだけど、「延命」という「医療」をどのように見るかということも関係してくると思っている。
(「延命」というのは「治療」ではなく、あくまでも「医療」。だって治らない段階での医療行為だから。なんとなく厳密に言うと変だなと)

母の緩和ケアへの移行は、ほとんど私との阿吽の呼吸だったように感じている。誰が決断したわけでもなく。ただし、大学病院の対応は「患者を見放した」と感じるものだったので、そのときがまさに移行のときだったのかなと思っている。
だけど運良く往診に来てくれる先生にめぐり合えたし、そのタイミングは絶妙なものであった。

果たしてこれが他の人にも当てはまるか、といったら違うだろう。

やはり、本人と家族の考え方なんだと思う。考え方の方向が異なっていたら、こんなにうまく人と出会えるようなことはなかったと思うし、看病をするときの力は生まれなかったと思う。
(看病や介護にはいろんな力が必要!)
であるから、そのときが来るまでに「家族で話し合っておく」、「意思確認をしておく」ということはとても重要なことのように思う。
とっても難しいことだとは思うけれど。
それから、本人が生きてきた様子や背景、環境をじっくりと考える(思い出す)必要はある。そこにヒントが隠されていると思うから。

家族がいない場合は、きっちり文書で残しておくとかね。
そういう方法をとるべきだなって思う。
(何たって、私には子どもはいないし。おそらく私が死を迎える頃は、家族や親戚も少なくなっているだろうし)


そうしておけば、治すための医療から苦しみを緩和するための医療へと、不思議なタイミングかもしれないけど、移行できるのではないかと思うのだ。

そのタイミングというのは人それぞれだと思う。全く、違うだろう。
それまで治療による治り方にもよるし、薬の効き方にもよる。
そしてその人の生命力や運にも左右されると思う。
なによりも緩和なんて必要がない、という場合もあるだろう。

そう思えばタイミングなんて気にする必要はないのかもしれないけれど…。問題は迷いが生じたときだ。

「治るの? 治らないの?」「治療は続けるべきなのか?」「ただ黙って死を待つべきなのか?」という迷い。

時間があるときに迷いは生ずるということも念頭において欲しい。時間がなく、差し迫っているときは迷っている場合ではないのだ…。

迷いが生じたとき、告知をしている人ならば、本人の意思を確認するしかない。それが一番のように思う。自分もそうしたい。
そして、本人の思うようにしてあげるのが家族の役目だと思う。

もし、告知をしていない場合は、本人に分からないように家族の誰かが決断をして移行するしかないんだろうなあ。


おそらく、全くの推測であるが、私が思うには「尊厳死」を望んでいる人は、その移行を素直に受け入れられるのではないのかなということだ。

延命を望む人にはそぐわない…というより、延命を望む人には治療も緩和ケアも必要なんだと思う。倍の力を必要とすることになる、きっと。
治療と緩和ケアの両立は、医療の現場に立っている人でしか分からないと思うけれど…どうなんだろうなあ。

でも可能であれば、そのどちらも受けられたら一番いいんだろうなと思う。相殺されてしまうことも考えれるけど。

う~ん、考えながら書いていたので、だんだんと深遠な話になってきてしまった。


ただ、一つだけ残念なことがあった。
実は昨年の9月に義父が亡くなっているのだが、義父が亡くなった原因となったその病気に関して、本人には全く告知をしていなかったということ。そのために死を迎えるとき、延命か尊厳死かということに、本人の意思が全く反映されなかったということがあった。
結局は、あれよあれよという間(※)に死んでしまったので、延命も尊厳もなにも考える暇はなかったのだけど、本人の思いは全く家族には伝わってきていなかったのだ。
それが非常に残念。
とっても曖昧なまま死を迎えてしまったのだ。

義父の最期は緩和ケアの一種ともいえるモルヒネを使用した。苦しみを和らげるためだ。本人にはそのように話したが、それをよいとするのかよくないとするのか、その返答を本人からは聞いていない。
「お医者さまの言うことであれば…」ということだったと思う。
そして単に苦しさを軽減させるもの、と本人は思っていたと思う、治療の一環として。

いつの時点まで、「自分の病気は治る」と思っていたのだろうか。そしていつの時点で「ダメだ」と思ったのか…。

息を引き取る前日に、お医者さまが牛乳を義父に飲ませてくれたんだそうだ。そのとき「これが最期かなあ」とぽつりと先生につぶやいたらしい。その場に家族は一人もいなかった…。

夫は言う、「何も親父は言い残さなかったな」と。

何も言い残さなかったのは、「本人は死ぬとは思っていなかったのではないか」と言うのだ。

難しい……。

ここでは告知の問題が出てきてしまう。
告知して、「もうあとが少ないんだよ」と義父に言っていたら、義父は何かを言い残したのかもしれない。そういう時間は十分にあった。

だけどそれはしなかった。
薬が効きそうな一瞬があったし。

でもそこで決断をして、義父に緩和ケアと称して、ゆっくりと過ごせるような時間を作ってあげたらよかったのか。

わからない。


やっぱり本人の気持ち次第のように感じる…。



話がちょっとずれてきたように思うが、「告知」が重要なポイントなんだなという気がしてきた。


このことに関してはもう少し考えてみます。



おしまい。


(※)あれよあれよという間…ではあったのだが、その「あれよあれよ」のときに、モルヒネを何度かフラッシュした。要するに、モルヒネを一回にそれなりの量を投与するということを何回か繰り返したということだ。家族は「苦しまないようにして欲しい」とは言ったけれど、その方法については、私だけかもしれないのだが詳細な記憶がないのだ。義父のそのときは、モルヒネを何回かフラッシュしたら、「あ、死んじゃった」って感じだった。そのために「あれ?」って印象が残った。
何だったんだろうと思う。これでよかったのかな、と実は思っているのだ。
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DATE: CATEGORY:緩和ケア
母が最期に受けた医療というのは「緩和ケア」というものである。
それは病気を治すための医療ではなく、病気の痛みをコントロールし、心穏やかに過ごせるように施す医療だ。

母は、今年の5月まで治療のための医療を受けに大学病院に通っていた。
ガンが骨に転移していたので、骨を強くするための薬やホルモン剤を点滴しに大学病院に行っていたのだ。
そしてその5月。移送サービスの業者さんに車を出してもらい、病院に着いてから、診察を受けたときに「もう疲れたので入院させてください」と自ら申し出たのであった。「どこが悪いのか、治すにはどうすればいいのか、それを教えて欲しい」。「家族に負担がかかってきているので、生活を立て直すためにも、ここで自分の体の状態をちゃんと知りたい」と。そんな理由があったようであった。

担当医はすぐには「うん」とは言わなかった。
「Mさん、入院するとこの次はすぐにホスピスということになるかもしれませんよ。家に帰れなくなるかもしれませんよ」ということを何度も言うのだ。

同席していた私は、はじめは担当医が言うこの意味がよく理解できずにいた。でも、何度も何度も聞いているうちに、「病院に入ると衰弱が進む可能性が高い」ということが分かった。おそらく、それは担当医の経験上のことであったと思う。そして、それだけ母の病気は進行していたんだと思う。
以前、この担当医と私は、母を抜きで話をしたことがあった。そのとき、「toroさんのお母さんは気丈に振舞っているけど、実のところ気が弱いところがあるよね」と母の印象を言っていた。私はその通りだと思ったので、担当医には「そうなんですよね^^;」という返事をしていたのだ。

実際、痛み止めということでこの担当医が処方してくれていた薬があった。モルヒネの一種で「オプソ」というものだった。それを処方してくれていたのが今年の春(4月頃?)……。この処方のことはあとで知ったのであるが、母は、この薬が処方されたのがよっぽどショックだったようで、全然関係ない引き出しの奥のほうへ押し込んでいたのだった。

そんな母の性格を察知してのことだろう。一生懸命オブラートに包みながら、母に説明をする担当医であった。

案の定、入院してみればどんどんと痩せ始めて、ご飯が食べられなくなってきた。そうこうしているうち大学病院の対応への文句が多くなってきた。

「ご飯は美味しくないし、検査の結果も診察もいままでと変わらない。大学病院は何もしてくれない」と文句たらたら。そうして2週間経ったら「もう退院する」と宣言し、退院してしまったのだ。

後から聞いた話では、退院時に初めて「緩和ケア」という言葉が出てきたらしい。実のところ、いま思えばであるが、担当医に「『緩和ケア』を…」という言葉を期待していたようなのだった。要するに「引導を渡すなら渡してくれ!」ぐらいに思っていたようなのだった。

担当医と気持ちがすれ違う母。

やはりお医者様と私が思っていた以上に、母は強い人だったのかもしれない。はっきり物を言ってもらえていたら、そのように対応していたのかもしれないと。

最後の最期まで、このお医者様の悪口を言っていた母であったが、いまごろはこの先生の気持ちを察知してくれているだろうな…と願う娘である。


さて、退院してから、前の記事にも書いているが、探しに探した緩和ケアの先生(O先生)に往診してもらうようになり、在宅で心穏やかに過ごせるようになった母である。「なんでこんなになっちゃうのかねえ~」とつぶやくこともあったが、自分の運命を少しずつ受け入れていったようだ。

そこで、O先生が処方した薬の話である。

痛みに対してはまず、「ロキソニン」「オプソ」…。どうしても苦しい、つらいと思うときには「マイスリー(睡眠導入剤)」。息切れがするときはやはり「オプソ」。そして酸素投与。また、痛み止めの薬のせいで便秘しやすくなるということで便秘に効く薬を一種類。

そんな処方であった。

これらを一つひとつ、どういうときに飲んだらいいのか、何に効くのかということを懇切丁寧に説明をしてくれたのだ。

そういう対応を受けて、がらりと変わった母の態度。大学病院でも処方されていた「オプソ」に対する拒絶反応は、ここで全くなくなり、O先生の言うとおりに薬を飲み始めた。

食欲が増すというステロイド剤や胃粘膜を保護する薬など、薬を飲む量は増えたけれど、これで安らかに過ごすことができるのであれば、と思ったようである。

それにも増して、O先生との会話がすこぶる楽しかったようで、先生と話のできる時間を楽しみに待っていた。

一時間以上も話をしてくれるお医者さまなんてそういないと思うし、O先生の対応には感謝で一杯である。

緩和ケアの薬については、もう少し詳しく書いてもいいように感じるが、O先生に接していて思ったのは、どんな薬を用いても、対話することが一番の薬になったということである。お話をし、心を通わせることで穏やかな気持ちになる。それを体現してみせてくれたのが、O先生であった。

お陰で、医療に対する不満も消え(大学病院への悪口は止まらなかったけど^^;)、そのまま最期を迎えることができたのでホット胸をなでおろしたのであった。



おしまい。
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