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Author:toro
細々と仕事をしながら生活をしている主婦です。母がガンに罹ってから6年。ターミナルの時期に突入したと思いきや、あっという間に逝ってしまいました。それでもちゃんと受け止めなくてはと覚書としてこれから書き残しておこうと思います。


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DATE: CATEGORY:病気のこと
ご無沙汰の更新であるが、書いておかなくてはと思ったので。
ガンの痛みを緩和させるための麻薬の使用について。

母はあまり痛がらなかった人だったので、そうたくさんの痛み止めを使う必要はなかった。持続性のある痛み止め、即効性のある痛み止めと数種類の薬を処方していただいていたが、飲み忘れたこともあったりして、そんなに必要ではなかったようだ。痛みについては、たぶん病気の持つ特有の症状や、その人の気質によって痛みの度合いというものが異なると思う。なのでそう一概には言えないのであるが…。

そのなかで、即効性のある痛み止めということで「オプソ」という液体の経口薬を処方していただいたときのこと。モルヒネの一種で麻薬である。

先生に処方箋を書いていただいて、近所の薬局で処方してもらわなくてはいけなかったのだが、先生いわく「この薬は置いてあるところが少ないと思うから、電話をして聞いてから行ったほうがいいと思うよ」と。モルヒネであるから、町のなかの小さな処方薬局などでは扱っていないだろうということだった。

先生の往診は夜だったので、翌日の朝には早速電話をしようと思った。

そこでまずは、私がお世話になっている婦人科のお医者さまのところの薬局に電話をしてみた。すると「オプソですか? ちょっと待ってくださいね」、とごそごそ調べてくれているような物音がしだした。

<すぐにあればラッキー!>と思っていた私である。一番最初の電話で見つかればうれしいなと。

ところが、電話口に戻ってきた薬剤師さんの口から出た言葉は「これ、麻薬ですよね~。そんな薬はうちでは扱っていませんっ!」と、まるで怒っているような口ぶり。「あ、すみません」と言って電話を切ったものの、なんだか不快感が残った。ちゃんとお医者さまに処方していただいていることも伝えているのに、人を非難するような声を出すってどういうことだろう。なぜそういう薬を使うのかくらい聞いてから返事してくれればいいものを、と思ったけれど、知識が少ないか、経験値が低い人だったのだろうと思って諦めた。

そして、もう一つ近くの薬局に電話をしてみたが、やはり置いていない。

<そうか、小さな医院で指定してくる薬局はダメなんだな>とここで悟る。

そうして、我が家から程近い、この辺でも大き目の病院に隣接する大きな薬局に電話をしてみた。

すると、「差し支えなければ、処方箋をFAXしてくれませんか?」とのこと。処方の内容を見てくれることになった。そしてFAXするとすぐに折り返し電話をくれて、「いま、うちには置いていないけれど、これから注文すれば今日の夕方には納品されますから、それからでもいいですか?」ということだった。処方箋の内容を見て、使用する病人の状態を推し量ってくれたんだろう。素早い対応をしていただいたと思う。

「夕方で結構です。よろしくお願いします」と言って電話を切った。ありがたかった。

そしてこのオプソという薬は、恐れるような薬ではなく、飲めばぐっすり眠れるということで母は気に入ってくれていた。飲み方さえ先生の言うとおりにしていれば大した副作用もなく、「モルヒネを使うと幻覚が……」なんて言われているが、使用量にもよるのだろう。全くそんなことは見受けられなかった。


ということでこの薬。

先生もゆっくりではあるが、母の最期がそんなに早く来るとは思っていなかったんだろうと思う。そのために、薬をいつも多めに処方してくれて、不安にならないようにしてくれていたのだが…。

思いの外、母の最期が早かったために大量に残ってしまったのである。

母の遺品の片づけをしなくてはいけないが、でもまずは薬を処分せねば。

そんなに副作用がなく、心配のない薬ではあるとはいえオプソは麻薬である。しかも液体。どうやって処分したらいいのだろうと頭を悩ませた。一応、取り扱いに注意という但し書きがビシッと書かれている。

<そうだ、薬剤師さんに相談しよう>

そう思って、処方してくれていた薬局に電話をした。すると、「水で薄めて捨てるといいですよ」という。<なるほど>と思って、<じゃあ、後でゆっくりとやるか>と思う。なんたって大量にあったから。う~んと思いながら。

と思っていたら、数時間後に薬局から電話がかかってきた。

「うちに持ってきてください。こちらで処分しますから」。あーありがたや。

どうやら、一番最初に薬があるかどうか電話で応対をしてくれた(どうも主任さんだったらしい)薬剤師さんが、あとでこのことを聞いて、「持ってきてもらえ」というようなことを言ってくれたらしい。

ちゃんと状況を推し量れる薬剤師さんだったのだ。

よかった~。

そして、母の残した薬を持って薬局に向かったのだった。


こういう経験から今後のこと。

医療保険制度の改革を知っていれば、病院の病床が今後減らされていくのをご存じだろう。要するに、「自宅で看護をしろ」という時代がやってくるのである。
そのとき必要とされるのは、往診をしてくれるお医者様であり、訪問看護師さんであると同時に、処方薬局(病院に付属している薬局ではなく)であろう。そこで、私が経験した↑ことが益々増えてくるのではないか。きっと増えてくるよ。大丈夫か? 薬剤師さん。。。


と、そんなことをふと思ったのだった。


ま~、こんなことでもない限りは気づくこともなかったんだろうけれど。


覚書の一つでありました。


おしまい。
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DATE: CATEGORY:病気のこと
毎年、年の暮れになると必ず母が作っていた料理がある。筑前煮か、がめ煮か、それに類する煮物。もう今回の年末年始は食べられないんだな、と思うと不思議な感じだ。料理がうまいんだか下手なんだかわからない母であったが、これは母の味として定着していたものである。もしかしたら、父が作っていたものをアレンジしたものかもしれない。料理好きの父が作った煮物にも似ていたから。いま思えば、作り方を聞いておけばよかったなと思う。いや、何となく再現はできるような気もするけれど。

さて、母に乳がんがみつかってからの病歴を記しておこうと思ったのであるが、それをメモしておいたレポート用紙がみつからない。捨ててはいないと思う。でもみつからないんだ。

ということで記憶をたどって、とりあえず書いておく。


2000年、秋から冬だったと思う。
「右の乳房のしこりが気になる」と母は言い出した。以前(その10年位前から)からしこりはあったのだが、それまでは悪性のものではなく、中身を抜くだけで大丈夫なしこりだったのだ。それが肩の痛みでおかしいと思い始めたようで、いつもお世話になっていた大学病院で受診した。そこで乳がんと診断される。

そのとき割と母は能天気で、「切れば治るんでしょう」くらいの勢いであった。「抗がん剤は使いたくない。化学療法で体力を消耗させるのはいやだ。もう年齢も年齢だから、体力を消耗させたくないし、無理はしたくない」と言い、化学療法は受けずに手術のみを選択した。
さらにセカンドオピニオンも受けたが、診断結果は同じ。

結局手術を行うこととし、右乳房とリンパ節を切除。

この後、右腕の上げ下げなどリハビリを行うも、そんなに苦もないようで、治ると信じていたようである。

3、4年後。(ここの記憶が定かではない^^;)
左首筋にしこりをみつける。「痛い」と言う。乳がんの主治医にこのしこりのことを相談するが、「大丈夫だろう」という話であった。しかし、母はどうもおかしいと思っていたようで、常にお世話になっていた先生に相談する。するとその医者はそのしこりに触れてすぐに「これはよくないかもしれない」と言い、検査を行った。結果「悪性リンパ腫」。
このとき、何らかの薬を使用したのか、それはよくわからない。いつの頃からか、何かの薬(抗がん剤ではないのは確か)を点滴する治療を始めていたし、、、。ただ、漢方薬を使い出したりしていた記憶がある。漢方薬のシップをリンパ腫の上に貼り、じっと大人しくしていたような姿を目撃していたので。

そして悪性リンパ腫はありがたいことにいつの間にか消え去り、一安心。

2006年夏。
「首が痛い」と母は言い出した。「人格が変わるほど痛い」という表現。相当な痛みであったようだ。そこで、病院で検査。「転移性骨がん」と診断される。術後5年を越えた矢先である。
ここで知らなかったのであるが、母は相当ながんについての本や資料を読んでいたようである。骨のがんには放射線治療が有効というのを知っていて、しかも最近ではピンポイント照射が可能であるということ。以前に比べて副作用も少ないということで、放射線治療をすることを望んだ。放射線治療は秋から冬にかけて毎日行われた。本人は入院したいようなことを言っていたが、通院で大丈夫と言われ、毎日通院する日々。

骨がんは首と腰にみつかったが、首が折れてしまっては即、死につながるということで首の治療を優先していた。首と腰にコルセットをする母。思うように身動きができなくなって、この頃から精神的な弱さを出すようになった。「病院に行く途中で転んで息が止まっちゃったりしたら、回りの人に迷惑がかかる」と言って、電車に乗ることも恐れるようになっていたが、それよりも自分が死ぬことに恐れを抱くようになっていたように思う。

放射線治療はとりあえず成功するも、副作用として味覚がなくなった。食べるのが好きだった母の楽しみを奪う形となった。そのためもあっただろうが、だんだんと食が細くなり始める。

そして2007年の春を迎えようとする頃、原因不明の熱に悩ませられ始める。血圧が高くなると近所の医者にかかっていたのだが、その先生は「風邪かもしれない」というものの、安静にしていてもなかなかひかない熱であった。あまり熱を出して臥せったことのない母はただただうろたえるばかりで、「なんでなんだろう、どうしてなんだろう」と何度も言っていた。

乳がんの主治医に訴えても明解な答えは帰ってこず、不安感ばかりが膨らむ。

この頃から、訪問看護士さんにきていただくようになり、母の病状を管理してもらうようになった。うろたえる母を素人の娘たちはなだめることができない。専門家に来てもらうことで少しでも不安を和らげたたいという思いが強くなる。

そしてGW明け。家事ができなくなってきた母は「入院したい」と言い出す。原因不明の熱にも悩まされていたし、物が食べられなくなってきていたから、その原因を知りたいと思ったようである。そして2週間入院。

振り返れば、転移性骨がんがみつかったときに、実は転移性の肝臓がんもみつかっていたようなのであるが、乳がんの主治医はあまりはっきりとそのことには触れていなかった。その先生は母の弱い部分を知っていて、非常に言葉を選ぶような人だったのだ。そのため母は「先生はちゃんと診断してくれない。私にちゃんと教えてくれない」と怒って、誤解していたようではあるが、先生の思いは母の弱い部分を慮ってのことであったと思う。それは私が一度母の代理診察で先生と話をしたときに感じたことである。

この2週間の入院もその先生は渋っていた。なぜならば、この入院をきっかけに衰弱してしまうだろうとわかっていたから。たぶん「末期である」ということを先生は知っていたけれど、母には言えないでいた。私はただニュアンスで先生のその気持ちを受け取っていたが。

そして最終的には「転移性肝臓がん」が母の命を奪った。

余計なことも書いているが、これが母の病歴。

以上。
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