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toro

Author:toro
細々と仕事をしながら生活をしている主婦です。母がガンに罹ってから6年。ターミナルの時期に突入したと思いきや、あっという間に逝ってしまいました。それでもちゃんと受け止めなくてはと覚書としてこれから書き残しておこうと思います。


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DATE: CATEGORY:介護保険
「要支援2」と認定されてから、保健師さんとのやりとりで「看護」を柱としたケアプランを作ってもらった。
私が第一に「訪問看護師さん」を希望していたのだ。

この頃はまだ月に1~2回、大学病院に通院できていたのではあるが、大学病院での治療が功を奏さないと思うようなことが出て来始めていた。
そして、「熱が出るんですけど」、「血圧が高いんですけど」と言っても、大学病院での検査結果には変化のない数値しか出てこない。そのためになんら打つ手はなく、家にすごすごと帰ってくることが増えてきたのであった。

熱が出るたびにうろたえる母。ガンに罹るまで「自分は誰よりも健康体」と思っていた人である。「風邪なんてひいたことがない」とも言っていた(そんなことはないと思うんですけどね^^;)。

そんな母であったから、熱が出ただけで「何事か?」というくらいにうろたえたし、パニックになってしまって、それを落ち着かせるのが大変だった。

娘の私たちは全くの素人であるから、熱が出たとしても「寝ているしかないんじゃない?」とか、そんなことしか言えない。原因も何もわからないし、ただもう母の訴えを黙って聞いているしかない。なだめる言葉もありきたりのことしか出てこない。

そういうことが続いていたために、どうしたらいいだろうと頭を悩ませた。

往診はそう簡単にはしてもらえないだろう。第一、大学病院からの往診なんてありえない。としたら地元のホームドクターに頼むか…。調べると往診は「終末期」のみなんて書いてあるし、まだ終末期ではないしなあと。

そこで「訪問看護師さん」である。プロにお願いできるのであれば、それに越したことはない。

医療保険でも訪問看護師さんをお願いすることができるが、介護保険でもお願いすることができるのである。当初「要支援」だとダメかなと思ったが、「予防」の観点からの訪問は可能であるということがわかった。そして早速訪問看護師さんに来てもらうことになった。
目的は体調管理、アドバイス、不安の払拭。

これも運がいいというのか…。まず、説明に来てくださった師長さんともいうべき女性がこれまた何に対してもきっぱりと意見を言ってくれる人であった。母のお好み^^

そして、毎週来てくださっていた看護師さんは見た目は小さく、か細い印象ではあったけれど、その性格はとてもしっかりしていて、しかも北海道出身者。北海道で育った母にはうってつけの人だったのである。

いつもニコニコしながらも、母の体の具合を聞き、どのように対処したらいいか的確にアドバイスしてくれた。

そして、毎週毎週、彼女が来るのを楽しみにし始めた母。お話も楽しかったのだろう。本来ならば、雑談は仕事のうちではない。しかし、不安を軽減させるための話をすることは許される。ケアプランにも「不安にならないような環境づくり」と書いてあったくらい、その点については細心の注意を払ってくださっていた。

それを120%叶えてくれたのがYさん。

本当に細かいところまで気を配ってくださった。

食べる量が減り始めれば、すぐに補助食品を紹介してくださったし、熱が出たときの対処法、水分補給の方法など、素人では分からないことを事細かに教えてくれた。

Yさんが来たとき、私が一緒にいられないときは、何かあればすぐに携帯電話に連絡をくれて、必ずアドバイスをしてくれた。

急な入院が決まったときも、保健師さんや介護支援事業者と「あっちこっちに連絡しなくちゃ」とくらくらしていた私に代わって、「私が連絡しておきますから」と一言、すぐに言ってくれた。こういうことが、とってもありがたかった。

やらなくてはいけないことがどっと押し寄せたときに、何気なく代わりにやってもらえるのは、本当にありがたいことなのだ。こういった行為にどんなに助けられたか。

家族の動揺は患者にもうつるということをよくご存じであったということもあろう。

このYさん。計らずも母が他界する2週間前に、家庭の事情で訪問看護ステーションを退職された。何となくではあるが、Yさんに看届けてもらわなくてよかったような気もしている。彼女に最期まで看てもらえたらよかったと思う反面、一生懸命やってくださったことが台無しになってしまうんじゃないか…。そんな変な思いがあったのだ。きっとそれは関係ないと言うだろうけれど。むしろ、最期まで…という思いを持っていてくれていたかもしれない。…それはわからない。

母の死はYさんにも伝わっているのだろうか。

さてYさんが去った後、引き継いでくれたHさんも大そういい人であった。

訪問し始めた頃から、もう終末…ということに気がついていたと思う。「呼吸がおかしいと思ったらすぐに連絡をくださいね」と。そしてこの頃、訪問は週2回に増やしていたのだけれど、さらに時間のあるときは顔を出してくれるようになった。

そのたびにお腹をマッサージしてくれたり、足をもんでくれたり。

息をひきとる前日も、一時間かけてゆっくりゆっくりとやさしくマッサージし続けてくれた。

「Hさんにはやさしくしてもらってよかったね」。


そしてYさん、Hさんにどんなに助けられたか。


感謝の気持ちを表すのがこんなに難しいと思ったことはなく、ただひたすら「ありがとう」というしかないのだけど、本当に言葉にならないくらい感謝している。

本当にどうもありがとう。

こういう方々のお陰で、いい終末を迎えられたのだ。
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DATE: CATEGORY:介護保険
母のガンの転移が見つかったと同時期、義父も体調が悪くなり入院ということになった。

そして義父が入院し小康状態になったとき、義父の担当医からは「転医や在宅での療養を考えて置いてください」と言われる。

要するに大学病院は3ヵ月までしかいられないから、転医する先を探すか、在宅での療養をするか考えて、その準備をして欲しいと言われたのであった。

「いずれ在宅での療養となるかもしれない…」と思ったとき、病院の看護師さんから「介護保険の申請をしておいたほうがいいですよ」というアドバイスを受けた。

それを聞いた義母は、私に申請等々をお願いしてくるのであるが、バカヤローの義兄のせいで後手後手となったのは…本宅で記したとおり。

とりあえず、介護保険の申請を行うことになった。
このとき「え~い、母も日常生活に支障をきたしているし、まとめて三人分(義母を含む)の申請をしてしまえ」と思い、介護保険の申請を行った。

そして認定。

義父は認定される前に他界。
義母は認定されるまで1カ月。
母は認定されるまで3ヵ月(病状が安定するまでと言われ時間がかかった)。

結果、義母も母も「要支援2」。

病気である母も、普段は元気一杯な義母も「要支援2」となり、複雑な心境にはなったが、母に対してはこれからの看護(介護)にお願いしたいことがあったので、認定されれば御の字と思っていた。

認定後の義母は、義兄夫婦にお任せ(そこまではやっていられない)。


そしてようやく、お世話になった方々の一人目である。

「要支援」となると「地域包括支援センター」が「介護予防(!)」のためのプランを考えてくれることになっている。そのセンターから派遣されてきた保健師さんがとってもお世話になった人なのである。

「要支援」であるから、「介護予防」なのであるが、母の場合はガンという病気である。この時点ではどのくらいの余命かは分からなかったが、「予防」できるものではなく、悪くなっていくのは明らかであった。
その点を理解してもらい、保健師さんには「看護」の観点からプランを作ってもらうようにお願いした。

この女性はとても若く、そうそうたくさんのケースを経験していなかったからかもしれない。何に対しても一生懸命だった。分からないことがあるとすぐに自分で調べて、私に教えてくれる人だった。

介護用品にしても、介護タクシーにしても、私が相談の電話をすると一緒に考えてくれた。そして「大丈夫です。任せてください」と力強く言ってくれたのだ。

母との会話も強く印象に残っていたようである。母の気の強い発言もしっかり受け止めてくれて、「こうしましょう、ああしましょう」とはっきりと言ってくれたのもありがたかった。

曖昧な発言を嫌う母である。はっきりと明快に応対をしてもらうとほっとするのだ。途中、センターの担当が変わることになったときには「この保健師さんではないと嫌だ」と言って、続けてもらったということもあった。



この保健師さんとは、9~10ヶ月くらいのお付き合いだったか。
本当によくしてもらったという思いしかない。


彼女に母の死を伝えたとき、彼女がその電話口で絶句したことを忘れることはできない。
そしてお通夜の席にも参列してくれて、誰よりも泣きじゃくっていた…。この私ももらい泣きをしてしまったくらいだった。


もう会う機会もないんだろうなと思うと寂しい気持ちになる。




ともあれ感謝の気持ちで一杯なのだ。ありがとう、Sさん。
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DATE: CATEGORY:緩和ケア
病気を治すための医療から、病気の苦しみを緩和するための医療に「いつ」移行したらいいのかということを、つらつらと考えてみた。

もちろん母の病気のこともあって、考えざるを得なかったということが本当のところではあるのだが。

とともに、考えざるを得ないことは「人の尊厳」ということである。ここで簡単にいってしまえば「尊厳死」のことなんだけど、「延命」という「医療」をどのように見るかということも関係してくると思っている。
(「延命」というのは「治療」ではなく、あくまでも「医療」。だって治らない段階での医療行為だから。なんとなく厳密に言うと変だなと)

母の緩和ケアへの移行は、ほとんど私との阿吽の呼吸だったように感じている。誰が決断したわけでもなく。ただし、大学病院の対応は「患者を見放した」と感じるものだったので、そのときがまさに移行のときだったのかなと思っている。
だけど運良く往診に来てくれる先生にめぐり合えたし、そのタイミングは絶妙なものであった。

果たしてこれが他の人にも当てはまるか、といったら違うだろう。

やはり、本人と家族の考え方なんだと思う。考え方の方向が異なっていたら、こんなにうまく人と出会えるようなことはなかったと思うし、看病をするときの力は生まれなかったと思う。
(看病や介護にはいろんな力が必要!)
であるから、そのときが来るまでに「家族で話し合っておく」、「意思確認をしておく」ということはとても重要なことのように思う。
とっても難しいことだとは思うけれど。
それから、本人が生きてきた様子や背景、環境をじっくりと考える(思い出す)必要はある。そこにヒントが隠されていると思うから。

家族がいない場合は、きっちり文書で残しておくとかね。
そういう方法をとるべきだなって思う。
(何たって、私には子どもはいないし。おそらく私が死を迎える頃は、家族や親戚も少なくなっているだろうし)


そうしておけば、治すための医療から苦しみを緩和するための医療へと、不思議なタイミングかもしれないけど、移行できるのではないかと思うのだ。

そのタイミングというのは人それぞれだと思う。全く、違うだろう。
それまで治療による治り方にもよるし、薬の効き方にもよる。
そしてその人の生命力や運にも左右されると思う。
なによりも緩和なんて必要がない、という場合もあるだろう。

そう思えばタイミングなんて気にする必要はないのかもしれないけれど…。問題は迷いが生じたときだ。

「治るの? 治らないの?」「治療は続けるべきなのか?」「ただ黙って死を待つべきなのか?」という迷い。

時間があるときに迷いは生ずるということも念頭において欲しい。時間がなく、差し迫っているときは迷っている場合ではないのだ…。

迷いが生じたとき、告知をしている人ならば、本人の意思を確認するしかない。それが一番のように思う。自分もそうしたい。
そして、本人の思うようにしてあげるのが家族の役目だと思う。

もし、告知をしていない場合は、本人に分からないように家族の誰かが決断をして移行するしかないんだろうなあ。


おそらく、全くの推測であるが、私が思うには「尊厳死」を望んでいる人は、その移行を素直に受け入れられるのではないのかなということだ。

延命を望む人にはそぐわない…というより、延命を望む人には治療も緩和ケアも必要なんだと思う。倍の力を必要とすることになる、きっと。
治療と緩和ケアの両立は、医療の現場に立っている人でしか分からないと思うけれど…どうなんだろうなあ。

でも可能であれば、そのどちらも受けられたら一番いいんだろうなと思う。相殺されてしまうことも考えれるけど。

う~ん、考えながら書いていたので、だんだんと深遠な話になってきてしまった。


ただ、一つだけ残念なことがあった。
実は昨年の9月に義父が亡くなっているのだが、義父が亡くなった原因となったその病気に関して、本人には全く告知をしていなかったということ。そのために死を迎えるとき、延命か尊厳死かということに、本人の意思が全く反映されなかったということがあった。
結局は、あれよあれよという間(※)に死んでしまったので、延命も尊厳もなにも考える暇はなかったのだけど、本人の思いは全く家族には伝わってきていなかったのだ。
それが非常に残念。
とっても曖昧なまま死を迎えてしまったのだ。

義父の最期は緩和ケアの一種ともいえるモルヒネを使用した。苦しみを和らげるためだ。本人にはそのように話したが、それをよいとするのかよくないとするのか、その返答を本人からは聞いていない。
「お医者さまの言うことであれば…」ということだったと思う。
そして単に苦しさを軽減させるもの、と本人は思っていたと思う、治療の一環として。

いつの時点まで、「自分の病気は治る」と思っていたのだろうか。そしていつの時点で「ダメだ」と思ったのか…。

息を引き取る前日に、お医者さまが牛乳を義父に飲ませてくれたんだそうだ。そのとき「これが最期かなあ」とぽつりと先生につぶやいたらしい。その場に家族は一人もいなかった…。

夫は言う、「何も親父は言い残さなかったな」と。

何も言い残さなかったのは、「本人は死ぬとは思っていなかったのではないか」と言うのだ。

難しい……。

ここでは告知の問題が出てきてしまう。
告知して、「もうあとが少ないんだよ」と義父に言っていたら、義父は何かを言い残したのかもしれない。そういう時間は十分にあった。

だけどそれはしなかった。
薬が効きそうな一瞬があったし。

でもそこで決断をして、義父に緩和ケアと称して、ゆっくりと過ごせるような時間を作ってあげたらよかったのか。

わからない。


やっぱり本人の気持ち次第のように感じる…。



話がちょっとずれてきたように思うが、「告知」が重要なポイントなんだなという気がしてきた。


このことに関してはもう少し考えてみます。



おしまい。


(※)あれよあれよという間…ではあったのだが、その「あれよあれよ」のときに、モルヒネを何度かフラッシュした。要するに、モルヒネを一回にそれなりの量を投与するということを何回か繰り返したということだ。家族は「苦しまないようにして欲しい」とは言ったけれど、その方法については、私だけかもしれないのだが詳細な記憶がないのだ。義父のそのときは、モルヒネを何回かフラッシュしたら、「あ、死んじゃった」って感じだった。そのために「あれ?」って印象が残った。
何だったんだろうと思う。これでよかったのかな、と実は思っているのだ。
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DATE: CATEGORY:家族
よかった~、とまずは結果から。

子宮頸がんを疑われていた姉。昨年の婦人科検診で「クラスⅢb」と診断されていたにも関わらず、婦人科の医者に診せずに一年経っていたのだ。あまりの腹痛のひどさに、母を看取った後ということのあったのだろうが不安になって私も通っている婦人科の開業医のところへ行ったのだった。
そして、昨年の検診結果を見て、そのお医者さまは「何で放っておいたの!!!!」と怒りまくり。ものによっては進行しているかも知れない。とっても恐ろしい状態であったのだ。

それから検査しまくり。血液検査、組織検査、MRI…。

そして先週、検査結果が出た。

姉と一緒に検査結果を聞く私。

結論から言えば「クラスⅢ」。がんにはなっていなかった(よかった~)。
人によってはあっという間に進行してしまうこともあるらしいのだが、
姉の場合は持ち直していた。ふう~。

しかし、子宮繊筋症を患っており、子宮筋腫も見つかって手術はしたほうが
よさそうではあるが。

とりあえず、セカンドオピニオンを求めつつ、経過観察をしつつ、
ということになった。


ホントによかった。
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DATE: CATEGORY:母の一日
ちょうど一年前に母にガンの転移が見つかり、さあ、どうするか、ということになった。

母のガンは原発は乳がん。
次に悪性リンパ腫に罹り(これは寛解)、
そして昨年、転移性骨ガン、転移性肝臓ガンが見つかった。
見つかったきっかけは、首の骨の激しい痛み。
骨ガンはガンのなかでも痛みがひどいものなのだという。その痛みに耐えかねて大学病院を訪ねてみれば、あえなく転移が見つかったということだ。

がん治療については、本人が事細かに調べていて、体に負担が少なく、だけど効果が上るものを常に考えていたようだった。
抗がん剤治療を拒否していた母は、抗がん剤で免疫力が下がるのを恐れ、さらに言えば60代も半ばを過ぎ、体力が落ちることのほうが問題であると判断し、抗がん剤治療を拒否していた。

セカンドオピニオンを受けたお医者さまも抗がん剤治療に疑問を抱いていた人だったので、その人の意見をずいぶんと尊重した形となった。

そして、術後5年を迎えようというときに転移が見つかった。

それから、一年前の今ごろから、私の毎日の実家参りが始まるのである。

骨ガンについては、放射線治療が有効であるということを母は調べていて、しかもピンポイントで治療ができるようになっているということであったので、その治療を受けることになった。

放射線治療を担当した先生も、治療方針をとても明快に解説してくれる人だったので、母も気に入ったようであった。

しかし、その治療が母の体に多大なダメージを与えた。

それは「味覚障害」。

頚椎と腰に骨ガンが見つかり、とくに頚椎は折れたら死んでしまうということで、その治療の急を要した。その頚椎への放射線照射が思いのほか強く、喉を痛めてしまう結果となったのだ。

そして食べることが大好きだった母の楽しみを奪ってしまった。
それからというもの、食が細り始めただけではなく、妙な味のするものを食べたがった。最期のほうでは、味の強いもの。キムチとか、スープカレーとか、明太子とか、そんなものではないと味を感じないので、偏食ばあさんになってしまった。

そんなことをしているうちに、見る見るやせ細っていくし。

味覚障害が食欲を減退させたともいえるが、ガンがやっぱり勝っていったんだと思う。ガン性の衰弱で食べ物を受け付けなくなり、、、そして……ということだ。

胃腸、消化器系は全く悪いところがなかった母である。
「乳がんは、食べられるからいいわよね」とも言っていたのに。

QOLの高さを保とうと思っていても、ダメなものはダメなんだなと思ったことであった。
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DATE: CATEGORY:緩和ケア
母が最期に受けた医療というのは「緩和ケア」というものである。
それは病気を治すための医療ではなく、病気の痛みをコントロールし、心穏やかに過ごせるように施す医療だ。

母は、今年の5月まで治療のための医療を受けに大学病院に通っていた。
ガンが骨に転移していたので、骨を強くするための薬やホルモン剤を点滴しに大学病院に行っていたのだ。
そしてその5月。移送サービスの業者さんに車を出してもらい、病院に着いてから、診察を受けたときに「もう疲れたので入院させてください」と自ら申し出たのであった。「どこが悪いのか、治すにはどうすればいいのか、それを教えて欲しい」。「家族に負担がかかってきているので、生活を立て直すためにも、ここで自分の体の状態をちゃんと知りたい」と。そんな理由があったようであった。

担当医はすぐには「うん」とは言わなかった。
「Mさん、入院するとこの次はすぐにホスピスということになるかもしれませんよ。家に帰れなくなるかもしれませんよ」ということを何度も言うのだ。

同席していた私は、はじめは担当医が言うこの意味がよく理解できずにいた。でも、何度も何度も聞いているうちに、「病院に入ると衰弱が進む可能性が高い」ということが分かった。おそらく、それは担当医の経験上のことであったと思う。そして、それだけ母の病気は進行していたんだと思う。
以前、この担当医と私は、母を抜きで話をしたことがあった。そのとき、「toroさんのお母さんは気丈に振舞っているけど、実のところ気が弱いところがあるよね」と母の印象を言っていた。私はその通りだと思ったので、担当医には「そうなんですよね^^;」という返事をしていたのだ。

実際、痛み止めということでこの担当医が処方してくれていた薬があった。モルヒネの一種で「オプソ」というものだった。それを処方してくれていたのが今年の春(4月頃?)……。この処方のことはあとで知ったのであるが、母は、この薬が処方されたのがよっぽどショックだったようで、全然関係ない引き出しの奥のほうへ押し込んでいたのだった。

そんな母の性格を察知してのことだろう。一生懸命オブラートに包みながら、母に説明をする担当医であった。

案の定、入院してみればどんどんと痩せ始めて、ご飯が食べられなくなってきた。そうこうしているうち大学病院の対応への文句が多くなってきた。

「ご飯は美味しくないし、検査の結果も診察もいままでと変わらない。大学病院は何もしてくれない」と文句たらたら。そうして2週間経ったら「もう退院する」と宣言し、退院してしまったのだ。

後から聞いた話では、退院時に初めて「緩和ケア」という言葉が出てきたらしい。実のところ、いま思えばであるが、担当医に「『緩和ケア』を…」という言葉を期待していたようなのだった。要するに「引導を渡すなら渡してくれ!」ぐらいに思っていたようなのだった。

担当医と気持ちがすれ違う母。

やはりお医者様と私が思っていた以上に、母は強い人だったのかもしれない。はっきり物を言ってもらえていたら、そのように対応していたのかもしれないと。

最後の最期まで、このお医者様の悪口を言っていた母であったが、いまごろはこの先生の気持ちを察知してくれているだろうな…と願う娘である。


さて、退院してから、前の記事にも書いているが、探しに探した緩和ケアの先生(O先生)に往診してもらうようになり、在宅で心穏やかに過ごせるようになった母である。「なんでこんなになっちゃうのかねえ~」とつぶやくこともあったが、自分の運命を少しずつ受け入れていったようだ。

そこで、O先生が処方した薬の話である。

痛みに対してはまず、「ロキソニン」「オプソ」…。どうしても苦しい、つらいと思うときには「マイスリー(睡眠導入剤)」。息切れがするときはやはり「オプソ」。そして酸素投与。また、痛み止めの薬のせいで便秘しやすくなるということで便秘に効く薬を一種類。

そんな処方であった。

これらを一つひとつ、どういうときに飲んだらいいのか、何に効くのかということを懇切丁寧に説明をしてくれたのだ。

そういう対応を受けて、がらりと変わった母の態度。大学病院でも処方されていた「オプソ」に対する拒絶反応は、ここで全くなくなり、O先生の言うとおりに薬を飲み始めた。

食欲が増すというステロイド剤や胃粘膜を保護する薬など、薬を飲む量は増えたけれど、これで安らかに過ごすことができるのであれば、と思ったようである。

それにも増して、O先生との会話がすこぶる楽しかったようで、先生と話のできる時間を楽しみに待っていた。

一時間以上も話をしてくれるお医者さまなんてそういないと思うし、O先生の対応には感謝で一杯である。

緩和ケアの薬については、もう少し詳しく書いてもいいように感じるが、O先生に接していて思ったのは、どんな薬を用いても、対話することが一番の薬になったということである。お話をし、心を通わせることで穏やかな気持ちになる。それを体現してみせてくれたのが、O先生であった。

お陰で、医療に対する不満も消え(大学病院への悪口は止まらなかったけど^^;)、そのまま最期を迎えることができたのでホット胸をなでおろしたのであった。



おしまい。
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DATE: CATEGORY:心境
クールな物言いをしてしまいそうなのだが、母の死に接してみて、いろいろと感じたことがあった。

その中でも、一番感じたことは「死に様はその人の生き様を写し出す」ということ。

母の死というのは、とてもきっぱりしていた。
まさに計画通り? というような感じ。

ガンを患ったことについては、本人は不本意だと思っていたと思う。
「ゼッタイに治してやる」と思っていたことも知っている。

でも、着々と死への準備を進めていたことも事実で、「尊厳死の宣言」書にしてもそう。遺言書のようなものを残していたこともそう。
そして、自分の荷物を減らし始め、死を迎える10日くらい前からはアクセサリーなどの形見分けをし始めた。
3日前には、前記事に書いたとおりで自分の葬儀の指示も与えた。

母は私に対しては、自分の死が近いということを私は分かっていると理解していたようで、あれこれと言えたようだった。

しかし姉には現実味があまりなかったため、母は自ら、その日の4日前に「Mちゃん、もうダメだと思う」と姉に伝えていた。

看護師さんにもわざわざ「週末だと思うの」と言っていたらしいし。

そしてその時を迎えれば、家族が揃って見送ることができた。
まるで予定通り。スケジュール通りという感じだった。


母は物事を白黒はっきりとつけたがる性分だった。「いいものはいい、悪いものは悪い」といつもきっぱりと言ってみせた人で、そのはっきりと物を言う性格が人に好かれる格好となっていた。

お陰で葬儀には思いも寄らない数の人がきてくださったし、思いも寄らない数の花が集まった。

私にとっては、白黒はっきりつけたがる性分は、ややもすると人を傷つける結果にもなったので、母の嫌いな側面でもあった。

でも、それでも慕ってくれる人がたくさんいたんだなあ、と感慨が深くなった。


そしていま思うことである。

生きてきた姿勢がそのまま、死を迎えるときの姿に反映されると。

葬儀はほとんどオーダーメイドになってしまい、グズグズになったときもあったけれど、母らしい葬儀になったし、死を迎える前の母の言動や死を迎えたその瞬間も母らしいなと思った。

納得づくの死。

生きてきた姿勢を感じさせる死。


白黒はっきりとスケジュール通りに母は逝きました。



ちなみに、私の父は病院で一人でひっそりと息を引き取っています。
どうも一人で逝きたかったらしく、家族を家に帰らせたあと、
知らないうちに死んでいました。
人を寄せ付けない(外面はとってもよかったんですけどね^^;)、
コワーイ父の最期も、いま思うと父らしいな~と思います。

面白いですね。

おしまい。
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