プロフィール

toro

Author:toro
細々と仕事をしながら生活をしている主婦です。母がガンに罹ってから6年。ターミナルの時期に突入したと思いきや、あっという間に逝ってしまいました。それでもちゃんと受け止めなくてはと覚書としてこれから書き残しておこうと思います。


最近の記事


最近のコメント


月別アーカイブ


カテゴリー


FC2カウンター


ブロとも申請フォーム


DATE: CATEGORY:スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
DATE: CATEGORY:病気のこと
毎年、年の暮れになると必ず母が作っていた料理がある。筑前煮か、がめ煮か、それに類する煮物。もう今回の年末年始は食べられないんだな、と思うと不思議な感じだ。料理がうまいんだか下手なんだかわからない母であったが、これは母の味として定着していたものである。もしかしたら、父が作っていたものをアレンジしたものかもしれない。料理好きの父が作った煮物にも似ていたから。いま思えば、作り方を聞いておけばよかったなと思う。いや、何となく再現はできるような気もするけれど。

さて、母に乳がんがみつかってからの病歴を記しておこうと思ったのであるが、それをメモしておいたレポート用紙がみつからない。捨ててはいないと思う。でもみつからないんだ。

ということで記憶をたどって、とりあえず書いておく。


2000年、秋から冬だったと思う。
「右の乳房のしこりが気になる」と母は言い出した。以前(その10年位前から)からしこりはあったのだが、それまでは悪性のものではなく、中身を抜くだけで大丈夫なしこりだったのだ。それが肩の痛みでおかしいと思い始めたようで、いつもお世話になっていた大学病院で受診した。そこで乳がんと診断される。

そのとき割と母は能天気で、「切れば治るんでしょう」くらいの勢いであった。「抗がん剤は使いたくない。化学療法で体力を消耗させるのはいやだ。もう年齢も年齢だから、体力を消耗させたくないし、無理はしたくない」と言い、化学療法は受けずに手術のみを選択した。
さらにセカンドオピニオンも受けたが、診断結果は同じ。

結局手術を行うこととし、右乳房とリンパ節を切除。

この後、右腕の上げ下げなどリハビリを行うも、そんなに苦もないようで、治ると信じていたようである。

3、4年後。(ここの記憶が定かではない^^;)
左首筋にしこりをみつける。「痛い」と言う。乳がんの主治医にこのしこりのことを相談するが、「大丈夫だろう」という話であった。しかし、母はどうもおかしいと思っていたようで、常にお世話になっていた先生に相談する。するとその医者はそのしこりに触れてすぐに「これはよくないかもしれない」と言い、検査を行った。結果「悪性リンパ腫」。
このとき、何らかの薬を使用したのか、それはよくわからない。いつの頃からか、何かの薬(抗がん剤ではないのは確か)を点滴する治療を始めていたし、、、。ただ、漢方薬を使い出したりしていた記憶がある。漢方薬のシップをリンパ腫の上に貼り、じっと大人しくしていたような姿を目撃していたので。

そして悪性リンパ腫はありがたいことにいつの間にか消え去り、一安心。

2006年夏。
「首が痛い」と母は言い出した。「人格が変わるほど痛い」という表現。相当な痛みであったようだ。そこで、病院で検査。「転移性骨がん」と診断される。術後5年を越えた矢先である。
ここで知らなかったのであるが、母は相当ながんについての本や資料を読んでいたようである。骨のがんには放射線治療が有効というのを知っていて、しかも最近ではピンポイント照射が可能であるということ。以前に比べて副作用も少ないということで、放射線治療をすることを望んだ。放射線治療は秋から冬にかけて毎日行われた。本人は入院したいようなことを言っていたが、通院で大丈夫と言われ、毎日通院する日々。

骨がんは首と腰にみつかったが、首が折れてしまっては即、死につながるということで首の治療を優先していた。首と腰にコルセットをする母。思うように身動きができなくなって、この頃から精神的な弱さを出すようになった。「病院に行く途中で転んで息が止まっちゃったりしたら、回りの人に迷惑がかかる」と言って、電車に乗ることも恐れるようになっていたが、それよりも自分が死ぬことに恐れを抱くようになっていたように思う。

放射線治療はとりあえず成功するも、副作用として味覚がなくなった。食べるのが好きだった母の楽しみを奪う形となった。そのためもあっただろうが、だんだんと食が細くなり始める。

そして2007年の春を迎えようとする頃、原因不明の熱に悩ませられ始める。血圧が高くなると近所の医者にかかっていたのだが、その先生は「風邪かもしれない」というものの、安静にしていてもなかなかひかない熱であった。あまり熱を出して臥せったことのない母はただただうろたえるばかりで、「なんでなんだろう、どうしてなんだろう」と何度も言っていた。

乳がんの主治医に訴えても明解な答えは帰ってこず、不安感ばかりが膨らむ。

この頃から、訪問看護士さんにきていただくようになり、母の病状を管理してもらうようになった。うろたえる母を素人の娘たちはなだめることができない。専門家に来てもらうことで少しでも不安を和らげたたいという思いが強くなる。

そしてGW明け。家事ができなくなってきた母は「入院したい」と言い出す。原因不明の熱にも悩まされていたし、物が食べられなくなってきていたから、その原因を知りたいと思ったようである。そして2週間入院。

振り返れば、転移性骨がんがみつかったときに、実は転移性の肝臓がんもみつかっていたようなのであるが、乳がんの主治医はあまりはっきりとそのことには触れていなかった。その先生は母の弱い部分を知っていて、非常に言葉を選ぶような人だったのだ。そのため母は「先生はちゃんと診断してくれない。私にちゃんと教えてくれない」と怒って、誤解していたようではあるが、先生の思いは母の弱い部分を慮ってのことであったと思う。それは私が一度母の代理診察で先生と話をしたときに感じたことである。

この2週間の入院もその先生は渋っていた。なぜならば、この入院をきっかけに衰弱してしまうだろうとわかっていたから。たぶん「末期である」ということを先生は知っていたけれど、母には言えないでいた。私はただニュアンスで先生のその気持ちを受け取っていたが。

そして最終的には「転移性肝臓がん」が母の命を奪った。

余計なことも書いているが、これが母の病歴。

以上。
スポンサーサイト
コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する


copyright © 私的覚書  all rights reserved.Powered by FC2ブログ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。